2011年5月3日火曜日

一ボランティアの雑感

東京に帰ってきて2週間が経とうとしています。宮古にいたのも、わずか2週間足らずでしたが、今でも瞼を閉じると、宮古の光景や、そこで出会った人たちの姿がまざまざと蘇ってきます。

宮古南部の津軽石で見た海の水面は、まるで津波などなかったかのように、光を浴びて揺らめき、木々は新緑を芽吹かせ、風は優しく頬を撫でていきました。国破山河有という言葉が、これほど辛辣に思えたことはありません。

「家族が一ヶ月たってやっと見つかった」「何も悪いことしてないのに、どうして…」「この先、どうやって生きていけばいいのか」というご家族を亡くされた人、家が土台から流されてしまった人の一語一句は、津波で破壊された壮絶な光景に劣らず、記憶に強く刻み込まれています。まるで、細胞一つ一つに、被災された方の悲しみが移植されてしまったような感じです。

宮古の市街の一部は少しずつですが、「復興」しているかもしれません。しかし、遺体の捜索が終わってない、或いは終わったばかりの地域では、津波直後とひとつも変わらない光景が延々と続いています。また、そこで避難生活を余儀なくされている人たちの、絶望や悲しみも、一縷の希望に変わることもなく居座り続けています。また、宮古市街であっても、取り残されている人たちと、そうでない人のあいだで「復興格差」が出来ていることも、紛れもない事実です。

僕自身、今後、どのように活動していけばいいのか、模索する日々が続いています。

堀内

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